観ないで語る『君たちはどう生きるか』

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

観ないで語る『君たちはどう生きるか

皆さん

映画観ていますか?

私は観てません。

 さて今回の観ないで語る映画時評はですね。

君たちはどう生きるか

です。

 そうです、言わずと知れた宮崎駿監督作品です。

ただまあ私の様な昭和生まれ世代だったら、「言わずと知れた」と言っても違和感無いんでしょうけど、まあ今のアニメ界隈ではですね、もしかしたら宮崎駿を知らないという世代もいるのではないかと。

 だってですよ、前作『風立ちぬ』が上映されたのが2013年ですから、もう既に10年経っているんですよね。その間、新海誠監督が台頭したり、『鬼滅の刃』が映画興行成績を塗り替えたりしているわけでしょう。小学生くらいだったら最早知らないかもしれないわけです。

 それにもまして今回なんと、

事前情報が一切出て来ないんですからね。内容についても一切語られていません。

 公式には例ののイメージ画しか出て来ないんですね。

 ただプロデューサー鈴木敏夫氏のラジオ番組『ジブリ汗まみれ』で、あのイメージ画の人物(?)は鷺(サギ)男という名前らしいというのが、語られています。確かによく見れば鷺(サギ)ですね。

 登場人物でわかっているのはこれと、主人公の少年とあともう一人女性が出て来るという話でした。なんでこんなに情報が少ないのかというと、プロデューサーの鈴木敏夫氏の戦略らしいですね。前宣伝を一切しないと決めたそうです。

 普通は上映が近くなれば、映画の情報をTV等で紹介したり、映画予告の映像が流れたりするもんですが、そういうのを今回一切しないということなんですね。だからまぁ本当に想像するしかないですよね。

 まぁでも少ない中でも現時点でわかっていることを並べて行きましょうかね。

・基本情報

 まずは基本情報から。

 公開は7月14日(金)。

 配給は東宝

 ドルビーシネマ、ドルビーアトモスのある劇場での上映も決まっている。

 上映時間は125分の予定。

 原作は吉野源三郎の著書「君たちはどう生きるか」に感銘を受けた宮崎駿自身によるオリジナルストーリー。

 スタッフは監督・脚本の宮崎駿作画監督本田雄

 それとこれは鈴木敏夫氏の話として出てきたのですが、製作委員会方式をやめるとのことでした。製作委員会方式とは複数の会社が出資することで失敗した際のリスクを減らすというメリットがあり、今まであらゆる映画がこの方式で作られて来ました。

 しかし今回は純粋にジブリのみの出資ということで、成功するか失敗するかが各方面から注目されています。しかもNO宣伝ですからね。本当にどうなるか気になるところです。

 キャストは全くわかりません。

 宮崎アニメといえば本業が声優じゃない人をメインキャストに据えることで有名ですが、たぶん今回もそれが踏襲されている可能性大ですね。事前に情報が一切出ないから、7/14の公開時に本当に初めてキャストがわかるということなので、その辺は非常に楽しみですね。

 あとは手描きが中心だということですね。まぁCG全盛の時代に手描きとはいかにも宮崎駿らしいですよね。手描きの良さを心行くまで堪能出来る作品であることを願って止まないですね。

 もう一つ嬉しい事前情報としては、冒険活劇ファンタジーということですかね。これは凄いソソられますよね。宮崎駿といえばやっぱりこれでしょう。

 ただまあいくら冒険活劇ファンタジーだと言ってもですよ、ただただ老人がボーっと空を眺めて空想で空を飛んでるシーンを見せられて、

「これだって立派なファンタジーだ。捉え方次第でどんなものだって冒険活劇ファンタジーになるんだよ!ファンタジーだからって必ず魔法使いやモンスターが出て来ると思ったら大間違いだ!」

とか言われたらね。「そりゃごもっともです、はい」と言うしかないですよね。

 あとはあれですね。原作にも一応触れておかなきゃならんですかね。

 『君たちはどう生きるか』の原作なんですが、1937年に子供向けの日本少国民文庫(全16巻)の最終巻として、吉野源三郎という人によって書かれました。

 私これ高校生の時読んだことあります。っていうか学校で読まされたんですよ。

 夏休みだったかなぁ、これを読んで感想文書いて来いっていう宿題を出された記憶があります。だから一応読んでるんですよ。ただ内容はあんまり憶えてない。学校から押し付けられた本ってね、当時イヤだったんですよ基本的に。だからあんまり頭に入ってないんですよね。だから宿題は半分やっつけ仕事でね、特に思い入れがあるわけじゃなかった。

 確か主人公が中学生くらいの男の子で、まあ自我が芽生える頃なんでしょう。友人のことなどで色々悩んでいるんですが、それに対して叔父さんが色々アドバイスするみたいな話でしたね、確か。端的に言ってしまえば説教臭い話なんですよ。

 ただね、なんか引っ掛かるんですね。もう読んでから40年以上経っているんですが、何か妙な話だなーっていう印象が残っているんですよ。それがなんなのか、その辺を読み解くことが映画を語る上で欠かせないものになるのかもしれません。

・原作を読んでみた。

 ということで久々に読ませてもらいました。まあ実家の古い本棚にね、奇跡的に残ってたんですわ。捨てたかと思ってました。でも捨てなかったってことはやはり無意識のうちに気に入ってたのかもしれませんね。

 まず、これは戦時中の話です。この本の初出は1937年です。

 この本を読んだ当時私は高校生で物凄くアホだったんですが、アホなりに戦時中の話だということは一応理解していたわけです。正確を期する為に書いておきますが、戦時中と言っても太平洋戦争のことではありません。満州事変から始まる15年戦争、或いは1937年から始まる日中戦争のことです。

 もちろん太平洋戦争の時の様な悲壮感はまだ無くて当然ですが、世の中軍国主義真っ盛りです。226事件が1936年ですからまあはっきり言って暗い世相と言えると思います。厭戦的なことを言ったり書いたりすれば捕まる時代です。現にこの本を書いた吉野源三郎氏は1931年に捕まっています。それにいよいよ太平洋戦争が始まると、この本ですら刊行出来なくなったそうです。

 だけどこの本ですね、ことさら大きく反戦を謳ってたり、または軍国主義を批判をしているわけではありません。この本の目的は子供達に、社会において何が大事か、或いはこれから社会を担う人達に何を伝えるべきかに終始しているからです。

 主人公の少年、通称コペル君(旧制中学2年生)が学校生活や日常生活をしていく中で色々なエピソードがあるわけですが、全編を通して何を伝えようとしているのかというと、世界中の物事は必ず繋がっていて、それぞれが補い合って出来ているということなじゃないかと感じました。

 例えばこんなくだりがあります。主人公のコペル君は、粉ミルクがオーストラリアからの輸入であり、多種多様な職業や国や立場の色々な人々の手を経ることによって、今ここにあるのだということを発見したと交換ノートに書きます。するとそれを読んだ叔父さんは、それは学問上の「生産関係」と言って、教わってもいない君が1人で辿り着いたのはとても立派だと褒めます。

 まぁつまりは人間社会というものがどうやって成り立っているかを啓蒙しようとしているんだと思います。そしてそれぞれ皆が社会を形成する為に欠かせないものなんだと、恐らくはそう読者が思い至る様に伝えているんだと思います。

 それと私が今回読んで一番印象に残ったのは、コペル君とその友人達の家庭事情と背景が関係するエピソードです。

 コペル君と友人たちの幾人かは、いわゆる上流階級なんですね。恐らくは上流階級の子が通う学校なんでしょう。友人の一人は品川辺り(高輪)のお屋敷に住んでいます。一人は陸軍の士官の息子です。主人公自身も元々は金持ちなんですが、父親が亡くなっているのでそれほど裕福な生活ではありません。しかしお手伝いさんがいたりするくらいには裕福です。

 ただ友人の中に1人、あまり裕福ではない豆腐屋の息子がいます。浦川君といいます。浦川君は油揚ばっかり弁当のおかずにしていたり、家業を手伝っているので成績も悪いためか、級友から馬鹿にされています。しかしコペル君とその友人達は他の級友達と一緒になってバカにしたりはしません。

 ある日その浦川君が学校を休みます。コペル君は病気で休んだと思って見舞いに行きます。しかし彼は病気ではなく親の家業の豆腐屋を手伝っていました。コペル君が訪れた時も油揚げを作っていました。彼は父親が金策の為に田舎に帰っていて、その上従業員の青年が体調を崩して寝込んだために、人手不足で家業が上手く回せなくなり、止むを得ず学校を休んで手伝っていました。

 事情を知ったコペル君は叔父さんにそのことを伝えます。すると叔父さんは「浦川君はまだ中学生なのにもう社会に参加して、つまり物を生産していて偉い。そこが君と彼との違いだ。彼はとても尊敬すべきだ」と言います。しかしその上でこうも言います。

「コペル君、君は社会に出る前だから仕方ないが今はただ物を消費しているだけだ。でもそんな今の君だってこの社会において“何か”を生み出しているんだよ。それが何だかわかるかい?」と問いかけるのです。そしてこうも言います。

「その“何か”の答えは敢えて言わないから、自分1人で考えてみなさい。今わからなくても良い。一生掛かっても良いから自分で考えて答えを出してみなさい」

と。この本の中ではとうとうその答えは語られません。宿題です。

 私はもちろん高校生の時はわかりませんでした。というか当時はどうでも良いと思ったのかも知れません。「んなのわかるかよ。知るか!」と。恥ずかしながらアホでしたから。

 まあ今もアホは変わらないんですが、あれから40年以上人生を積み重ねて来て、改めて今読み返してみたらようやく自分なりに答えが出ました。

 恐らくですが答えは「需要」です。

 何故なら叔父さんは、最初に物を作ることの尊さを延々と語っていたわけです。

 浦川君は貧乏だけどとても偉いと、あの年でもう生産者側になっていると。君ら消費するばっかりの金持ちボンボンとは大違いだと。まあ有り体に言えばそう言ってるわけです。

 だけどこれは壮大なフリだったんですよ。

 世の中というのはただ生産すれば良いというわけではない。そこに「需要」があって初めて「供給」、つまり生産が成り立つわけです。

 「需要」は何も生産者じゃなくたって生み出せます。

 豆腐を欲すればそれが「需要」です。そうすれば人は豆腐を買いに行き、浦川君のうちはその利益で潤うわけです。

 これは改めてわざわざ指摘するほどのことではないですが、経済においてとても大事なことです。

 そして人権意識にも繋がっています。

 ともすると資本主義の世の中というのは働く人が至上であるということに陥りがちです。しかし世の中というのは満足に働ける人だけではありません。五体満足で無い人もいます。年取って働けなくなった人達もいます。ならばその人達を不要とするのか?社会参加出来ないのか?否ですよね。

 彼らにも出来る社会参加とは何か?それは「需要」に他ならないわけです。需要があれば供給が必要になる。供給が必要になれば生産の必要が生まれる。生産の必要があれば労働が生まれる。そこに市場が出来る。

 需要と供給、どっちも大事ですよね。

 まあ勘違いする人はいないと思いますが、生産者が偉くないなんて誰も言ってませんからね。吉野源三郎もそれはハッキリとしつこいくらいこの本の中で繰り返しています。生産者は偉いと。

 これね、何が大事って、戦争中にこのメッセージ出すこがとても大事なんですよ。戦争中って非生産者を弾圧しがちですからね。まあ有名なのはヒットラーの政策ですよね。

 何年か前に「非生産的なヤツは殺せ」って障害者施設の入所者を殺し捲ったヤツがいましたよね?あいつと同じ発想は絶対したくないですよね。でも割としがちでしょ?最近の世の中。人生経験の乏しいヤツに限ってこういうことを偉そうに言いがちですよ。そりゃたまに愚痴るくらいなら良いですよ。映画『男はつらいよ』の印刷工場のタコ社長みたいに、「良いよなぁ寅さんは~」とか言ってるくらいならね。

 でも忘れてはいけないのは非生産者だって大事な社会構成者なんですよ。それを忘れてしまってはダメなんですよ。非生産者を包摂出来るくらいの社会にならなければ、世の中回らなくなるんです。社会に寄与しない者は無駄だ無駄だと排除していくマインドが、やがては需要と供給のバランスを崩すことに繋がって行くんです。

 正しく需要を把握しなければ、正しく供給されないんですよ。そこを忘れて供給者側の視点ばっかりで世の中を見ていると、かつての共産主義国が失敗したみたいに、必要無い物ばかりが供給過剰になったり、本当に必要な物が足りなくなったりして経済が崩壊したりするんですよ。あれは共産主義者が自分達の理想の社会を推し進めるあまり、つまり労働者の平等ばかりを追い求めるあまり、消費者が本当に欲するものが見え難くなってしまったことも、要因の一つだと私は思いますよ。

 非生産的だと言って排除していくと無駄なものが無くなって良いと、一見思えるかも知れませんが逆なんですよね。無駄だと思える中に新たな需要があるかもしれないわけです。わかり難ければ今風にニーズと言ってもいいですよ。新たなニーズが見つかればそこに新しい市場か生まれるかもしれないんです。そこに色々なチャンスがあるかもしれないんですよ。

 そういうあらゆる物を包摂する社会じゃないと世の中豊かにならないんですよ。だからまともな社会を維持するために、非生産的な物を排除してはいけないんです。子供も老人もその他の弱者も、もちろんニートだって排除してはいけないんだと私は思います。

 引き籠りの子供がいる親の需要だってあるでしょう。色々悩みが多い筈だ。その悩みは需要に繋がりませんか?繋がりますよね。引き籠りになんとか社会参加させたいという需要があれば、そこに何らかの市場が出来る筈だ。それは無駄なものですか?介護だってビジネスになったじゃないですか。全く無駄ではないですよ。

 戦争というものはそういう考えから最も遠いのです。もちろん戦争になれば大きな需要が生まれます。破壊によって失われる物が多いですし、破壊のために大量に必要な物も出て来ます。それで一時的には経済が潤うでしょうよ。

 でもそれらは物凄く疲弊を伴うんですよ。消耗が激しいですからね。社会が疲弊します。段々とジリ貧になるんですよ。それらは巡り巡って生産性をも脅かします。いよいよ末期ですよ。

 だからたぶんこの本は太平洋戦争中は禁書とされたんでしょう。そこに思い至る様に出来ているから。

・結論

 まあ以上の様に私のzのは考えるわけですが、この本を読んで自分で考えて答えを見つけられる様になることが『君たちはどう生きるか』のねらいだったんじゃないですかね?

 だからと言って宮崎駿監督が私と同じ様なことを本を読んで感じて、それを今回の映画に盛り込めるかどうかは全くわかりません。まあ原作の題名だけを借りた全くのオリジナルストーリーだということで、私の感想の様なことは全くと言って良いほど反映はされないでしょうけどね。

 ということで皆さんは7/14に『君たちはどう生きるか』を観に行ってくださいね。

 まっ、私は観ませんけどね…っていうかちょうど夜勤なんで観られないんですよ~

(ノД`)・゜・。

 

以下に今回のブログを書くに当たって、自分なりに洗練させたいと思って、ChatGPT君の意見も取り入れました。その様子の一部を公開しておきます。

のzの

軍事主義的な社会の不毛さと包摂的社会の有用性を人に上手く伝える文を考えています。

 

ChatGPT君

「軍事主義的な社会の不毛さと包摂的社会の有用性」について、以下のような文をご提案します。これは一例であり、ご自身の意見や考えを加えることでより具体的なメッセージを表現できるかと思います。

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戦争と軍事主義が支配する社会において、我々は不毛な道をたどっています。戦争は破壊と苦痛をもたらし、人々の生命と尊厳を踏みにじります。資源とエネルギーが戦争機械に流れ込む一方で、社会は疲弊し、人々の希望と幸福が奪われていくのです。

しかし、包摂的で協力的な社会の力を信じることができます。包摂的な社会は、人々が互いを尊重し、協力して共に成長することを重んじます。差異や対立を乗り越え、多様性と包容性の力を活かすことで、社会全体が豊かさと繁栄に向かって進むのです。

包摂的な社会では、人々は力を合わせて平和を築き、教育や医療などの基本的なニーズを満たすことに集中できます。公共の利益と社会的な正義が優先され、共同の目標のために努力する喜びが生まれます。それぞれが持つ才能や能力が最大限に発揮され、社会全体が持続的な発展を遂げるのです。

軍事主義的な社会の短期的な利益にとらわれるのではなく、包摂的な社会の価値と可能性を追求しましょう。共に育ち、共に繁栄する社会の実現は、真の意味での進歩と未来への道です。私たちが選ぶべきは、協力と理解、そして持続可能な平和の構築です。

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このような文で、軍事主義的な社会の限界や包摂的社会の価値を強調することができるかと思います。ご自身の視点やメッセージを加えながら、よりパーソナライズされた文を作成してみてください。